どうしてアニメを語るためにニューメディアをとりあげるのか
凡例: トーマス・ラマール『アニメ・エコロジー』からの引用はすべて( )の中に頁数のみ表記しています。
米原:今回取り上げるのはトーマス・ラマール『アニメ・エコロジー』です。『アニメ・エコロジー』は原著は2018年にミネソタ大学出版、翻訳は名古屋大学出版会から2023年に刊行されたのですが、『アニメ・マシーン』よりも相当にハードコアな本のため、日本でも刊行されて以来、ほとんどまともに議論の俎上に取りあげられたことがありません。というより、私も含めて、読みこなせる人間がこの世界にいるかもよくわからない本となっています。というのも、2010年前後の情動論や新唯物論の展開を踏まえた「コンプレックス」概念が提示されているのですが、これは、ガタリの『三つのエコロジー』を前提にしているそうでして、この本そのものも難解で知られており、さらに読解を難しくしています。江永泉さんがまだいらしてないのですが、時間の都合もあるので、先に始めたいと思います。あとで書き起こしも配布しますから、キャッチアップはできるかと。では、今回は石岡さんの推薦でこの本を取り上げたのですが、読書会を始めるにあたって本の紹介をしていただけますか?
石岡:この本は日本では比較的には批判的検討も進んでいる『アニメ・マシーン』の続編となります。『アニメ・マシーン』は、アニメ研究ではかなりインパクトを持って受け止められています。グローバルアニメ学をとりあつかうコミュニティであるメカデミア(Mechademia)などがそうですね。このコミュニティでは、もともと日本学全般を扱っていたのですが、いまでは2.5次元界隈とか、アニメと社会学やってる方々とか、SFなどがとりあげられています。そこで刊行されているジャーナルも同じく『メカデミア(Mechademia)』ですね。『メカデミア』は20年ぐらい活動している学術コミュニティなんですけれども、トーマス・ラマールはそこで初期から活躍してした人です。今回は、トーマス・ラマール『アニメ・エコロジー』の第3部のみを対象としたいと思います。最初に裏話をしてしまうと、この本の理解を深めて講義をしたいというのもあって取り上げさせていただきました。『アニメ・エコロジー』という本は3部構成からなっているのですが第3部が本書のハードコアになっていて非常に難しい。参加者全員アニメーションに関心があり、みなさんと意見を交わしつつ自分の理解度合いを高めていきたいです。というわけで、今回読書会で読み進めていきたいのは第3部「インフラストラクチャー・コンプレックス」です。この第3部は、第10章「ファミリー・ブロードキャスト・コンプレックス」、第11章「ホームシアター・コンプレックス」、第12章「ゲームプレイ・コンプレックス」、第13章「ポータブル・インターフェイス・コンプレックス」の4章からなっています。最初に読む「ファミリー・ブロードキャスト・コンプレックス」、これは家庭用のテレビ放送のことですね。そして『クレヨンしんちゃん』がメインテーマとなっています。トーマス・ラマールには、私も何度かインタビューしたり、ちょっと喋ったりしています。カナダのマギル大学にも所属しつつ、シカゴ大学の東アジア研究センターにもいるそうです。そして、そのあたりのキャリアを追っていくと、あることがわかります。ラマールは、海洋研究や日本文化研究など、多様な研究背景があるのですが、私がまず押さえておくべきと考えるのは、ジルベール・シモンドンについてのフランスの概説書や、ダヴィッド・ラプジャードが出したウィリアム・ジェームズについてのフランス語の本を英語に訳すぐらいの、ガチ・ドゥルージアンだ、という点です。
白江:ラプジャードのジェームズ論を訳してるのはちょっと面白い話ですね。ドゥルーズを最初に触れてからジェイムズやアメリカプラグマティズムのラインを後から勉強していくのではなく、初めからジェームズ論の道を確保してるという、結構変わった経歴。
米原:一応、最新の経歴を追加しておくと、2026年3月時点では、3冊の本を用意しているそうです。1つが、『「ハーフ・ライフ」——放射線とアニメーション(Half Life: Radiation and Animation)』。核拡散時代における核兵器表象を再検討するというもの。次の1冊が、『緑の異端——環境批評とプラントスタディーズ(Green Heresies: Critical Ecology and Plant Studies)』です。ここ10年は、人間の知性の枠組みを再検討するために動物と比較するだけでなく、植物の複雑な生態や生理化学的機序に注目するという流れがありますが、そうした流れをラマール的に解釈するもののようです。最後の1冊が、『デジタル的動物性——惑星家畜化時代おける生のメディア化(Digital Animalities: Mediating Life in an Age of Planetary Domestication)』です。こちらは論集のようでして、2026年7月に出版するようですね。気候変動に伴う生物学的危機についてデジタルメディアがどのように機能するのかについて多角的に分析した論集のようです。ラマール自身は共著者のジョディ・バーランドと執筆した序文「環境政治学的時代における動物的生のメディア化(“Mediating Animal Life in Ecopolitical Times”)」以外では寄稿していないですが、2026年でこの本が出る時点ではその序文が公刊された文章の最新のようです。『緑の異端』と『デジタル的動物性』は、ラマールが海洋学者としてキャリアを始めたことを彷彿とさせますね。
石岡:フォローアップありがとうございます。白江さんの話に付け加えると、『アニメ・マシーン』では、みんなドゥルーズ『シネマ』との連想で、ここ足りないっていう突っ込みとかがすごく目立つんですが、最初からよく見ると実はそっちは主題ではない、と言えます。実は、ポール・ヴィリリオやシモンドンの技術哲学、そしてガタリの方が、力点は強く掛かっていたんですね。なので、むしろ近年の日本で注目されているメディア哲学、例えばユク・ホイと比較することが妥当ですし、彼の思考と並行するような考察を、しかし対象領域をアニメにしてやってる人ということができるかもしれないです。もう1つ興味深い点として、この本は私が『美術手帖』でインタビューしたさいにも言及したのですが、いわゆる『ニューメディアの言語』(原著2001年)のレフ・マノヴィッチ、『ニューメディアの哲学』(原著2006年)のマーク・ハンセン、などニューメディア論に対する対決が背景があります。ニューメディア論とニューマテリアリズム、そして情動論的転回みたいな議論がいろいろある中、ラマールは独自のスタンスで介入を行うっていうのをこの本で同時にやっちゃってるんですよね。それが複雑なところだと私は思っている。「メディアエコロジーとはアニメのエコロジーなのだ」という主張になると思うのですが、そこが難しいところだと思います。そうした背景をふまえると、Media Ecologies of Japaniese Animeみたいにしておけば、本当のわかりやすいタイトルだったと思うんだけど、もはやそんなことは言わずに『アニメ・エコロジー』といきなり言ってしまう。ただ、振り返ってみると、『アニメ・マシーン』では、『ちょびっツ』(2002年)を論じたりしながら、コンピューター・ガイノイドの話をしている割にアニメそのもののデジタル化の条件、要するにニューメディア論との関係を議論する点が弱いんじゃないのかっていう批判が結構あったんですよね。なぜなら『アニメ・マシーン』ってのはシネマティズムとアニメティズムっていう、要するにシネマではないアニメっていう区分を持ってきたことが一因だったからです。そうした批判に対してラマールは準備を進めていたことを、私も聞いていて、満を持して発表されたのがこの『アニメ・エコロジー』なんです。だから、この本の特徴は、日本におけるニューメディアの展開にあるんですよね。ところで、ニューメディアって言葉は、日本ではマノヴィッチが出た瞬間から古いって言われていた。それは、1980年代の日本における当時の電電公社、NTTがやろうとしていたニューメディアの試みとかがあったからです。
米原:NTTがやろうとしていたニューメディアの試みって何ですか?
